死にたい気持ちを粗末にするな

鬱病の時、死のうと思った。
いきなり重たい始まりになってしまって申し訳ない。
とにかく、もう生きていたくなくて、手首(というか腕)を刃物で切った。
それまでも死のうと思って試したことはあったけれど、その時は本当にもういいや、と思っておもいっきり刃を引いたので、傷口が深くパックリといって血がかなり出た。
色々あって、兄が付き添って、大きな病院の緊急外来に傷を縫いに行った。
その日は連休だった。宿直の医師と看護師さんは何事もなく終わる予定だった日に突然やってきた自殺未遂の患者に戸惑っていた。
看護師さんは露骨に「あ~、連休の夜にリストカットの患者なんて~」と声に出して、私の傷口付近の固まりかけている血をゴシゴシと拭いた。
「そうですね、あなたたちは生きたくても生きていけない人たちを診ているのに、お仕事増やしてすみません。」
心の中でそうつぶやいているうちに縫合が終わった。
それからしばらくの間、抜糸までその病院に消毒のため通った。大きな病院なので昼はいつも混雑していた。
待合室で名前を呼ばれるまでの間、心の中でいつも「自分勝手に死のうとして、皆さんの待ち時間をさらに増やしてすみません。」という気持ちでいっぱいだった。
やがて、抜糸の日がやってきた。大きな病院なので、診察の医師が日によって違うのだけど、その日は初めて見る医師だった。
医師は、私の腕の糸をパチリパチリと切って引き抜く間、ずっと、苦虫をつぶしたような顔をし続けていた。その間も私はいつものように心の中で「すみません。私はどうしようもないですね。いつも病気や怪我と闘っている人を診ていらっしゃるのに。」と、つぶやいていた。
全ての糸が抜き終わり、席を立とうとした時、医師の口から「もうこんなことしちゃだめだからね。」という言葉が出た。
私は驚いて、医師の顔を見た。お叱りとかでは決してなく、本当に私のことを心配している表情だった。悲しそうな顔でもあった。
大病院の流れ作業のような診察の中で、医師が患者に感情を見せることがあることに、私は動揺した。
それ以降、自傷はしていない。

今、もう鬱は寛解している。(と思う。)
鬱の時、毎日死のうと思っていた日々の中で、何が一番つらかったのか、寛解した今なら冷静にわかる。
死にたいという気持ちを他人から否定されるのが一番つらかった。
「生きたくても生きられない人がいるんだぞ」
「世の中にはもっとつらい人がいるけど、がんばって生きているんだ」
知っている。でも、その人たちと比べられて「よし!生きていこう」とはならない。
私の好きなアニメ「おそ松さん」にこんなシーンがあった。
大人になった6つ子の長男おそ松が、弟たちとうまくいかないことを幼馴染のおでん屋チビ太に愚痴る。
チビ太は一人っ子の自分からしたら兄弟がいるというだけでうらましい。兄弟は大事にしろ、と諭す。そこでおそ松はキレて言い返す。
「関係なくない?お前が兄弟欲しかったことと、俺が弟にムカついてることと関係なくない?」
そう、関係ないのだ。誰かにとっては贅沢でも、その人にとっては切実な悩みなのだ。誰かと比べて、悩み番付をつけてることに意味はない。

「死にたい」という気持ちに至るまで、どんな理由であれ人それぞれ過程がある。それを「わがまま」「ぜいたく」「甘え」の文脈で否定したくない。粗末にしたくない。その人にとっては大事な感情の一つだ。
「死にたい」気持ちは「死にたい」気持ちとして、あっていい。
でも、そのうえでいうけど、「死にたい」と思っている人に死んでほしくない。
これを読んでいるあなたが、今まさしく「死にたい」と思っている人だとする。あなたのこと死ねばいいと思っている人はまずいない。私を宿直で看てくれた看護師さんもめんどくさそうな口調ではあったけれど私に「精神科のお医者さんにはちゃんとかかってね。」と言ってくれた。
たぶんだけど、あなたは自分が「死にたい」と思うまでに至った過程を誰かに知ってほしくて、誰かに見つけてほしくて、「死にたい」と思いながらも今この瞬間を生き続けているのではないだろうか。
私は医師でもカウンセラーでもない。だから、あなたの「死にたい」気持ちを溶かす方法は知らない。
でも、死にたい気持ちを粗末にされた悲しみは知っている。
私は、あなたの「死にたい」気持ちを粗末にしない。
だから、いつか、「死にたい」気持ちが溶けてなくなる日がやってくるその時まで、どんなにあがいてもいいから、死んでほしくない。生きていてほしいと思う。

今、この文章を書き終わって、久しぶりに腕の傷を見た。
縫合した跡を数えてみたら6針だった。